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「反住基ネット通信」第12号(2005年7月)掲載

◆ 金沢・名古屋地裁判決の読み方 ◆

 1次稼働から3年が経過する中で「日常化」が進もうとしている「住基ネット」だが、2005年5月末、金沢地裁と名古屋地裁があいついでだした住基ネット差し止め訴訟の2つの判決は、これを大部分の全国紙が社説で論評したことで改めて強い関心が喚起されることになった。2つの判決は、住基ネットを「再考」する機会を作ったと言えるだろう。
 確実に、金沢地裁判決は「画期的な」ものなのだが、2つの地裁判決は真正面から対立する判断を示していた。というか、この3年間私たちが主張してきたことをかなりストレートに理解し取り入れた(私たちから見ればかなり常識的な)金沢地裁判決に対して、その翌日ただちに、これとは完全に対立する名古屋地裁判決が出されるという状況が意図的に作られていた。名古屋地裁の判決日は、審理の中断−−裁判所判断による結審によってひねり出された日程だった。

「シンプル・イズ・ベスト」ってことか?

 だから名古屋地裁判決の内容は、金沢地裁判決にくらべるまでもなく、空虚なものに見える。そしてこの空虚な「請求棄却」の論理を、私たちはすでに数多く読まされてきた。各市町村に対して行った中止請求/削除請求に対する多くの個人情報保護審査会の判断や、あるいは行政不服審査請求に対する市町村・都道府県の判断だ。
 「本人確認情報保護のため、種々の措置が講じられており、……(住基ネットはプライバシーを侵害するような)危険なシステムであるとは認められない」、また「住民票コードが割り振られたたことにより公権力による国民個人の情報の一元管理が可能となるものでもない」。従って「原告らの請求は全部理由がないのでいずれも棄却する」……。(名古屋地裁判決 p.27)
 こうしたきわめて「シンプル」な判断が現実性を持つためには、個人情報保護のための「措置」などの実効性が、精密に評価されていなければならない。たとえば次のようにだ−−「しかしながら、定められた個人情報保護措置が全国3000の市町村で確実に実施されるか疑問であり、次々と発表されるOSのセキュリティホールに対するパッチを速やかに当てることができるかすら疑問である。また、いわゆるソーシャルエンジニアリングに対する対策が行われていることについては何ら証拠がない。」(金沢判決 p.71)

「具体的危険性」−−なんで「具体的」が必要なんだ?

 とはいえいくつかの課題を、金沢地裁判決は私たちに残してもいる。たとえば、明治大学の夏井高人さん(法情報学)は、次のように指摘する。
 「デジタル情報化されない権利を究極まで進めると、たぶん、登録される前(つまり、事件性のない時点で)住民基本台帳法それ自体の無効確認を求める訴訟を提起することができるということになります。」
http://maruyama-mitsuhiko.cocolog-nifty.com/security/2005/05/post_b676.html
 被害が発生するか具体的な危険が指摘されなければ、つまり事件性がなければ、「差し止め」を請求することはできないという解釈は、名古屋地裁判決だけでなく金沢地裁判決にも採用されている。金沢地裁の「セキュリティ」についての評価にはこの問題が顕著に現れていて、情報セキュリティの考え方からずれた判断をしている(情報セキュリティは危険の「可能性」にこそ注目するのだ)。
 「プライバシー侵害の可能性を本人はあらかじめ排除できる」というのは、自己情報コントロール権のもっとも根本の考え方ではなかったか?

危険/安全は誰が立証するのか?

 金沢・名古屋両地裁の判決は、かなり早い時点でインターネット上に公開されたため(http://www.ws4chr-j.org/e-GovSec/)、「ネットワーカー」たちからの注目も、今回目立った。あるIT技術者の「ブログ」は金沢地裁判決に対して次のようにコメントする。
 「『安全対策の不備で、住基ネットへの不当なアクセスや情報漏えいの具体的危険があるというのは困難』ということだが、どのような調査を経て『具体的危険があるというのは困難』と言ったのか? 万一原告に具体的危険を証明させようとしていたのならもってのほか。」
 この問題もまた、金沢・名古屋両地裁判決が共通して抱える問題だ。ネットワークの世界では、「情報の安全」に関する情報を独占している「システム運用者」に、きわめて厳しい説明責任が課せられている。十分なレベルで「危険の可能性」が排除されていることをシステム運用者が立証できなければ、そのシステムは「危険」なのだ。

 「ネットワーク問題」は日本の行政機関や法制度にとって、まったく「新しい」問題を提起するものだった。だから行政の考え方や法制度の体系が、こうした課題に適切に対応できていないとしても不思議はないのかもしれない。
 だとすれば、私たちが今実現しようとしていることは、何かを解釈したり拒否したりすることではなくて、何かを「変化」させることなのだと思う。

(西邑 亨)
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掲載紙:「反住基ネット通信」
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